私の腰痛体験

江戸川区小岩にある小岩カイロプラクティック院 院長の宇田川です。話せばとても長いお話ですが・・・。 笑いあり涙ありのお話全部ひっくるめて、私(院長)の腰痛の体験です。 1話から読むのがお薦めですよ。

1.ある日、突然 !

過去に腰が痛いと思ったことは1度もない。
それなのに・・・。

ある日の朝、いきなり腰がロックして動かなくなった。
枕元にある携帯電話を取るのも大変な痛み。

びっくりして病院に行ったら、レントゲンを撮られて「姿勢を良くしてね」とだけ言われて痛み止めを貰い、帰された。
「ぎっくり腰」私も年なのかなぁと思っていたけど、その時は3日位でその痛みは消えました。


あれが人生初の腰痛体験。

この後とんでもない体験をするとは、夢にも思っていませんでした。
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2. 私が寝たきりに?

その半年後、再び腰がロックしたように動かず、激しい痛みに襲われて病院に行きました。
半年前の初発の時のレントゲンと、今回のレントゲンを並べられ、
Dr.「これは痛いよ~。随分進んでいますね。」
私 「(心の声)痛いから来たんだよ~。何が進んでいるのさ」

Dr.「このままいったら2年後には寝たきりになりますよ」と突然の寝たきり宣言
私 「どうしたら良いんですか?」
Dr.「痛い時にはムリしないで寝ていなさい。そのうち痛い時が多くなって、
寝ている事が多くなって、寝たきりになるでしょう。寝たきりになったら手術しよう。」
私「・・・何が悪かったんでしょうか? 何が原因ですか?」
Dr.「いゃぁ、もう歳なんですよ。老化現象だからしょうがないよ。」
私 「・・・ 」

・・・まだ30歳そこそこだったというのに。
老化?もう老化?えっ
ちなみにこの医師は腰痛の専門医で有名な先生だということでした。
でも、治療してないじゃん。
寝たきりになるまで何もしないで見てるだけなの?

・・・ということで、別の病院にセカンドオピニオンに行きました
自分の事を「不治の病」みたい云う、この先生を全く信じられませんでした。

3. どっちを信じたらよいの?

次に行ったところの先生はレントゲンをみるなり、「黒人のような腰だね~」と訳のわからないコメントを残した
どういう意味

そして「脊柱側弯症と第5腰椎の分離すべり症、発育不全かな?」と言われる。
先生、30近くにもなって、発育不全と言われましても・・・みたいな気持になる。
そっちが重要ではないとは思うんだけど。
素人は、どうでも良いところにこだわっちゃうんだなぁ~。
でも、この前行った病院の先生は老化現象って言っていなかったか??

私「治りますか?」
Dr.
「痛みは取れるよ。かなり運動しないといけないから、覚悟があるなら   リハビリ病院を紹介するよ」
私「運動するんですか? 寝ていなくて良いんですか?
Dr.
「寝てばかりいると、筋肉が弱って起きられなくなるよ。
   自分の腹筋で天然のサポータを作りなさい。そうすれば腰痛は改善するから。」
私「・・・」

1
人目の先生は寝ていろというし、今度の先生は運動しろというし、全く逆の話なので大混乱に陥ることに・・・・。
同じ整形外科の先生で、こんなに意見が違うものなの?
(
今思えば、これはyesなのです。1人の先生だけを信じ過ぎてもいけないのですよ。
)

でも寝ているだけで特に何もせず、寝たきりになったら手術という方法には希望がないんですよ。

これは多くの病院で体験することですが、
検査の後、難しい病名を告げられ (理解不能)薬と湿布だけ渡されて、ポイっ。
今後の話を聞けば「もっと悪くなったら・・・」という話をします。

患者は【もっと悪くなったら】よりも、良くなるか、少なくともこれ以上悪くならない方法を探しに医師のところに行くのですよ。

で、いろいろ考えましたが、努力すれば腰痛がとれると言ってもらった先生を信じるべきなのではないか?
努力の余地がある分、こちらの方が希望を持てる

・・・というわけで、私は一生懸命運動するリハビリを選ぶことにしました。

4. 風変わりな入院

さて、そんな訳でリハビリ病院に入院することになりました。

が、実際は入院というよりは、スポーツ合宿のようなイメージでした。
リハビリ病院の紹介状を書いてくれたS先生の注意事項
・水着を忘れずに。
・運動着はたくさん必要。


よく考えてみるとすごいリハビリ病院で、国立大学の教授が監修の為に週1回来院、
オリンピック出場選手を養成するような本格アスレチックトレーナーが月・火曜で来院、指導する。
その他毎日、理学療法士の指導があって、個人のリハビリメニューを組まれます。

患者さんの半分は地元のお爺ちゃんお婆ちゃんで、他はみんな東京の病院から送られた人たち。
東京組のほとんどは怪我をしたアスリートで、手術後のリハビリ。
私のような「一般人」はほんの一部だけ。
ようするに、爺婆か、アスリートしかいない病院なんです。中間がいない。
で、どっちかって言うと・・・というノリでアスリートのカテゴリーに入っちゃったんですよ
すっごい適当。

5. 病院での1日

以下、通常の1日のスケジュール。

9:00  リハピリ室が開く時間。腰を温めるホットパックを貰う為に並ぶ。
9:30  プールでの歩行練習。ここから2時間位ひたすらプールを歩く。
        正しい姿勢で前歩き・うしろ歩き・カニ歩き・さらには大股でとか、ももを高く上げてとか、いろいろ
       ありました。
       (正しい姿勢で・・・っていうのができなくて、入院したのだけど?)  
12:00 昼食 
12:30 検温
13:00 午後のリハビリ開始。
     個々に必要なトレーニングメニューを紙で渡され、自分のメニューをこなす時間。
     1時間位、理学療法士とのマンツーマンの指導あり。
     他に超音波とかレーザー等、メニューに入っていると、機械の空きを見て使用。
17:00 リハ室終了、入浴タイム
18:00 夕食
23:00 就寝

いやぁ、朝の9時半からプールに浸けられちゃうんですよ
この時の理学療法士、「プールを1・2時間歩いて下さい」と簡単に言ってプールから去ろうとします。
なので思わず「1時間ですか2時間ですか」と突っ込んじゃいました。
だってすごい差じゃないですか、1時間と2時間では・・・。
この突っ込みはとても意外だったようで、後に再入院になった時に「あ私、あなたの事覚えてます。プール歩行は1時間ですか、2時間ですか?って聞いた人ですよね」って別の理学療法士に言われました。
逆になぜ、みんな突っ込まないの

普通に会社生活をしていた方が、よっぽど楽でしたね。
一応病院なので昼食後に検温があるのですが、最初の10日位は、午前中のプールだけで1日の体力全てを使い果たしてしまい、38度位の熱が出続けました。
怖い事にだんだん身体も慣れていくんですけど・・・。

そして午後はずーっと腹筋してました
理学療法士が来て運動を見てくれるんですけど、それも全部腹筋でした。
上部・中部・下部と、内側・外側に分けて、ピンポイントに筋力をつけるような腹筋です。
腹筋の無い私は、腹筋しようとしても起き上がれない
首や肩にばかり力が入るので、バリバリに凝る。
辛かった~。

6. 腹は割れているもの?

初めての入院の時には20代前半のアスリートが沢山入院しておりました。
バスケットやバレーなどの実業団組や、高校・大学のレスリング部、柔道部など様々なジャンルのアスリートの宝庫でした。
ある日の事、夕飯前ギリギリの時間にお風呂に浸かっていると、私よりももっと遅れて女の子たちがバタバタと入ってきました。

一般のリハビリ患者達を終えた最後の最後に、理学療法士は彼女たちにかなりハードなトレーニングをします。
【しごき】っぽいです
「できるまでだ」とか言って、若い理学療法士が限界ギリギリまで鍛えているので、夕飯がみんなと食べられない事もしばしばありました。
夕飯前にリハビリが終わるなんて、早い方なのです。

そんな彼女たちに「今日も頑張ったねぇ」なんて言いながら、ふと見ると・・・。
まだ幼さの残る可愛い顔をした彼女たち、みんな腹が割れているんですよ
「すごい腹筋だね」と言ったらキョトンとされて、
「腹筋、割れてないんですか」と逆に聞き返されました。
いやいや、普通割れてないから。
余計なことを言ったばっかりに、私のお腹をジロジロ見られてしまいました
「やだ~、ホント割れてない~

「普通の人は腹筋だって1回もできない人が多いんだよ。」
「うそ~ ありえない~」

彼女たちの感覚では、腹が割れているのは普通だし、カッコ良いことみたいですが、私の感覚では異常なわけで・・・。
でも長いことこんな状況の中にいると、みんなの腹が割れているから、だんだん自分の腹が割れていないのが異常みたいな感覚になってくるんです。
私の普通は彼女たちの普通でなく、何が普通で、何が普通じゃないのか、だんだん曖昧になってきます。

彼女たちのリハビリを見ていると、みんな首や背中に重りをつけて腹筋しているような強烈なモノです。
少なくともあのリハ室で、腹筋できない私はとても異常だった。
初めは腹筋しようと私的にはがんばっているのですが、見た目にはリハ室でゴロゴロ転がっている私は「何やってるんですか?」とよく言われました。

それでも入院後半、気づけば腹筋100回、ふうふう言いながらもやっている私がいました。
でも私の他はみんな重り付きの腹筋ですからねぇ。
この位は普通かもなんて・・・。
そんな感じで1回目の入院は終わりました。
腹筋ができるようになるまで、1か月半かかってしまいました。
退院時には、めでたく腹も少しは割れましたパチパチ

 

 

7. 真夜中の308号室

私が入院したのは整形外科ですが、病室には内科の患者さんもいるし年齢もまちまちです。
従って、生活習慣も時間もバラバラですから、かなり気を使います。
入院当初、6人部屋の、部屋に入って右側の真ん中のベッドが私の居場所でした。
私のまん前、つまり部屋の左側の真ん中は大学1年生、あとはお婆ちゃんたちです。
私の左の隣のおばあちゃんだけ内科の入院、他は整形のリハビリ目的の患者さん達で、それぞれリハビリで疲れているので、夜8時には寝てしまう人も多いのです。
9時になる頃には音を立てないよう細心の注意をしなければいけません。

入院初日の夜、11時の完全消灯で、痛い腰をさすりながらウトウトしていると、12時頃、大学生がそっと帰って来て起こされました。
本人はそっとのつもりなんだけど、物を落としたりすごい音です。
「シーッ」と、自分で突っ込み入れてかわいいから、うるさいけど憎めない。

2時頃、寝がえりを打った拍子に、腰がズキッと痛んで目を覚ましすと、左隣のカーテン越しにグビッ、グビッと喉を鳴らしている大きな音が・・・。
夜中の2時ですよ。

静まりかえった部屋の中では、かなり大きなグビッグビッという音・・・、何かを飲んでいる音ですけど、スポーツの後に勢い込んで、水を飲んでいるような?
もしくは砂漠のオアシスにやっとたどりついた人の喉を鳴らす音のような?・・・その位すごい音です。

img018眼を開けて、悲鳴を上げそうになりました!!
小さい電気をつけているので、その姿がカーテン越しに、大きな影絵のように私のすぐ横に映っているのでした。
そして美味そうに飲むグビッグビッ・・・は続く。

驚いてしまって、結局、そのお婆ちゃんが再び寝息を立てても寝られず、朝5時頃ようやくまた寝ついたと思ったら、夜8時から寝ていた他のお婆ちゃん達が起きだす時間。
耳が遠いので、おしゃべりの声が大きいのよ。
でも自分たちは気を使って静かにしているつもりです。
眠気がピークに達している中で、6時になると正式な起床時間。
看護婦さんがカーテンを開けにやってきます。
・・・もう寝ていられません。朝食を取ってリハビリの開始です。

この部屋、ジェラシックパークなんじゃないか、と思いました。
私の前に寝ている大学生は寝像が悪くて、夜中にベッドから落ちるし、寝言を言うし、ある晩すごい音がして何かが落ちたので、カーテンを開けたらシャンプーのビンが転がっていたこともありました。
何でシャンプーのビンをベッドの中に置いて寝ているんだか・・・?

そして左隣のお婆ちゃん。
初日の夜にグビグビ何かを飲んだのは偶然ではなく、毎晩のことだったのです。
気づいてしまったら、もう寝られません。
ある晩はグレープフルーツを丸かじり、ジュルッジュルッとやっていたり、とにかく夜中の行動としては不可解で、気になってしかたありません。
でも、本人に聞けないじゃないですか。

・・・・気がついてみると、3日間位、まともに寝ていなかった。
(このお話は次回につづく)

8. 朝の308号室

さて、昨日の続きです。

・・・・気がついてみると、3日間位、まともに寝ていなかった。
ある朝、どうしても起きられず、「ご飯だよ、けーこちゃ~ん!」と呼んでくれるお婆ちゃんに「ご飯いらない。寝てます。」と言いました。
そうしたら!

そのお婆ちゃん、まず看護婦さんを呼びに行っちゃいました。
今度は看護婦さんが「どうしました?具合悪いの?」と言うので、無視もできないし、同室の人たちが気になって寝られないとも言えず・・・。
「寝ていれば治ります」とだけ言いました
お婆ちゃん達は心配しつつも、朝食の為に食堂に出て行きました。
良かった、静かになった・・・・そしたら看護婦さんがベッドまでご飯を持ってきて、セッティングをしてくれるのです。
申し訳ないんだけど、放っておいてほしい・・・。

ご飯から帰ってきたお婆ちゃんは、一人ずつカーテンの中を覗きます。
「けーこちゃん、だいじょうぶ?」
「けーこちゃん、果物だけでも食べたら?」
・・・好意で言ってくれているので、文句も言えない

左隣のお婆ちゃんが、「けーこちゃんに野菜ジュースを買って来てやろう」と言ったら、右隣のお婆ちゃんが、「そういう時は牛乳だ、あたしが買いに行く」と言い出したのです。
「こういう時は野菜ジュースでしょ」「何言ってんの、牛乳の方がいいのよ」
・・・そのうち、口喧嘩が始りました

どうなることかとハラハラしながら閉めたカーテンの中から聞いていると、争うように2人は出て行き、しばらくすると、カーテンをジャッと開けて、牛乳と野菜ジュースをそれぞれ手に持った2人のお婆ちゃんが入ってきました。
「けーこちゃんは、どっち飲みたい?」
・・・あぁ、もう「寝ていたい」なんて、言うんじゃなかった

しかたなく、野菜ジュースと牛乳を飲みました。
もう寝るのは諦めて着替えだした時、2人のお婆ちゃんが言うのです。
「けーこちゃんは牛乳飲んで元気になった。」「野菜ジュースが効いたんだ。」
「けーこちゃん、よかったね。」
そして、「よかった、よかった、もう心配ないからリハビリ行きましょ」と部屋の全ての人が立ち去り、急に、病室はとても静かになったのでした。
し~~ん・・・・

・・・・私もノロノロ着替えてリハビリに行きました。
おなかがゴロゴロ言ってました

9. 恐怖の筋力測定機、サイベックス

私のいたリハビリ病院には、日本で数台しかないという筋力測定器がありました。
その時は膝のケガで入院したアスリート達が多く、みんな大腿の筋力測定をやるんですが、私とお相撲さんだけは体幹の筋力測定で、みんなとは違う機械を使います。
体を板のようなマットに貼り付け獄門にされて、腹筋を使って体を前に倒したり、倒したところから背筋を使ってまた立つ姿勢まで戻ったりを繰り返すのです。
ものすごい負荷がかかっていて、ちょっとやそっとでは体は動きません。
顔を真赤にしながら「う~んっ!」とか唸って、やっと前に倒れ、そこから起き上がる、の繰り返し。
理学療法士の「はい、いちっ。・・・もっと早く! にっ。」という掛け声が測定室に響き渡ります。
まさしく拷問です。だって、腹筋、無いんですから・・・(汗)。

でも、これ、他人がやっているのを見物するのは、すごく面白いんですよ。
私も自分がやるのはすごい嫌でしたが、お相撲さんがやる時は必ず見に行ってました。
だって、私と測定値が全然違うんだもん、当たり前だけど・・・。

入院中、私は3回程、これをやらされたんですけど、やっている私の周りにはイスを持って来て眺めているギャラリーがいっぱい。
みんなが「がんばれ~」なんて心にもない掛声をかけてニヤニヤする中で、脱腸にでもなるんじゃないかと思うほど踏ん張って、真っ赤な顔で体を前に倒したり後ろに起こしたり・・・。
ホント、これは嫌いでした。
「宇田川さん、今日の2時、サイペックスね」なんて、理学療法士から声がかかると、朝からブルー。
逆にみんなは、「おっ、じゃあ、今日は外練を早く終わらして来なきゃ」なんて具合です。


osumo-san私の退院時測定の前日のことです。
お相撲さんがサイペックスをやっている最中に、バキッという音がしました。
壊れちゃったんですねぇ、あまりに力が強すぎて。
修理には何百万もかかって、すぐには直せないということでした。
私は小躍りして喜びましたね。
・・・晴れて、退院時測定は中止のまま、退院しました。
その3年後、再入院になった時にも、体幹測定用サイベックスは壊れたままでした。
病院もお金がなかったんですかね。
それ以降、この機械には乗っていません。

10. 誕生日のこと

リハビリ病院に入院して1か月経った頃、私の誕生日がありました。
ちょうど日曜日で、外泊で自宅に帰ろうかな?なんて思っていたのに、夫の仕事の関係でそうもいかなくなり、結局、誕生日を病院で迎えることになりました。
その前日、土曜日の病院は、午前中に東京から医師が診察に来て診てもらい、今後の予定を決めたり、リハビリの内容を指示されたりされますが、リハビリは無く、診察が終わればフリーです。
午後、お相撲さんとマサという大学のレスリング部の若者と、フッチーという一般人お姉さんの4人で、近くのスーパーに買い物に行って、夜ご飯を食べてくる事になりました。
田舎のリハビリ病院は田んぼの中にあって、一番近くのスーパーと言えど、8Kmの距離があります。
入院して初めての外出で、大冒険のようなウキウキした気分でスーパーに行き、併設された美容室でカット、日常生活ではあり得ない事ですが「憧れのスーパー」なわけです。

焼き肉・しゃぶしゃぶ食べ放題を堪能した後、帰りのタクシーの中でマサが「コンビニに寄りたい」というのです。
まっすぐ帰っても3500円もかかるのに、何を言い出すんだ(怒)!!・・・と思いましたが、しょうがない、コンビニに寄りました。
何やら小さな袋を提げて、マサはすぐ戻ってきました。

夜、消灯時間が過ぎたころ、マサから携帯に電話がかかってきました。
「11:59にエレベーター前に来て下さい。」
・・・消灯後の、しかもナースステーションの近くですよ。・・・かなり迷惑・・・。

でも、どうしても、と言うので眠い目をこすりながら行きました。
マサは、帰りに寄ったコンビニの袋を持って、立っていました。
「何?・・・ なんか用?」
「もう少し待って・・・。」
「??・・・看護婦さんに見つかっちゃうよ、何なのよ。」
・・・なかなか話をしないマサ。時計なんか見ちゃっています。そして・・・。

「宇田川さん、12時になった。・・・誕生日おめでとう。」

マサがくれた袋の中には、カプセルのようなパックに入った120円のショートケーキが1つ入っていました。

病室に帰って・・・泣きました

11. 野球少年ヒロ君

ちょっと脱線して、リハビリ病院で出会った15歳の少年のお話をします。
通常の入院とは違って、リハビリ病院では日中は非常に忙しい。
前にも書いたとおり、朝からプールに入ったりトレーニングしたりの合間に、レーザーや超音波療法を受けたり、患者さんによっては定期的に筋力を機械で測定したり、レントゲンに呼ばれたりと、時間刻みのスケジュールをこなしていました。
でも、リハビリが終わって夕食を食べてしまうと、11時就寝まで何もすることがないんですよ。
病室にはお婆ちゃんお爺ちゃんもいるので、9時位からは大きな音を出していると怒られてしまいます。そこで1Fの談話室が開放され、みんなそこに集まります。

ただし「若者たち」なのですよ。
だいたい18~25歳位の子たちが毎晩トランプやゲームをして過ごしているのですが、おばさんな私は1日で疲れてしまい、2日目からは誘われてもその輪に入れませんでした。
行き場のない私は1F待合室ロビーにあったテレビで、毎晩プロ野球を見て過ごしました。
待合室のテレビは大きくて、病室と違って音を出して見られる上に無料でした。
そして、病室のテレビはベッドの横にあるので、身体を横に向けて見なければいけないので、腰の痛い私は20分も見ていられません。
待合室だとソファーに座って真正面のテレビが見られるのです。
ここにビールがあれば、自宅の居間と変わらないんですけど・・・。(笑)

広いロビーでたくさんある長椅子にポツン、ポツンと離れて何人かの患者さんがテレビを眺めていましたが、集まる顔ぶれはだいたい同じでした。
同じようにプロ野球を見つめている中に、少年が1人いました。
たぶん若すぎて、「若者」には入れなかったのか、大勢で騒ぐのが苦手だったのか・・・?
・・・3日位そんな風に野球を見て過ごすようになった頃、 その少年、ヒロ君が私の隣に来て、「誰のファンなんですか?」と聞いたんですよ。
私は原監督の選手時代からのファンだけど、その時先発だった巨人の投手も好きだ、と言ったら、
「僕、このピッチャーと同じ高校なんです。この人みたいになりたいんです。」と嬉しそうに言うのです。
その投手の出身校は、私の自宅のすぐそばにありました。
聞くと、彼の家も同じ区内で、自転車で行けるような距離であることがわかりました。
遠い異国で日本人と会うような? ・・・オーパーですが、全く非日常の病院でそんな感じの親近感を持ちました。

これがきっかけで彼が退院するまでの約1カ月間、ずっと一緒に野球を見るようになりました。
寡黙な少年でしたが、野球がしたくて私立中学の野球部に入ったこと、中学3年の2月に肩の靭帯を悪くして手術したので、中学の卒業式にも高校の入学式にも出られなかったこと、甲子園に出ることが夢だ、という話を、テレビを見ながらポツリポツリ話してくれました。
野球観戦仲間ができたと思ったのでしょうか? しばらくすると必死で抑えていた不安や感情が少しずつ出てくるようになりました。
「4月から休学しているけど、僕の行く高校の野球部はすごい人気で、毎年新人が100人位入るんだ。僕も高校生になっても野球部に入りたかったけど、もう諦めるしかないかもしれない。ゴールデンウィークに新人歓迎合宿があるけど、それも間に合わなかったし。遅れて入っても居ずらいと思う。」
大人でもツラく淋しい田舎のリハビリ病院に、ヒロ君は15歳で親元から離れて2か月もがんばっていたのです。
彼の言葉は段々野球を諦めるしかない、から、野球をやめるんだ、辞めたい、と変わっていきました。
野球人生を考えたら、中3で肩を壊して手術なんて、絶望的な出来事なのでしょう。
野球に夢中であればあったほど、自分の未来が真っ暗にみえるのでしょう。
・・・ヒロ君の話は、重すぎて、何と言ってあげれば良いのか、私には掛けられる言葉が見つからず、ただ聴いているだけの毎日でした。

退院の1週間前くらいだったと思います。
彼は一度だけ泣きました。
私が「ヒロ君がそんなに苦しくて不安で悩んでいるのは、野球が諦めきれないからだよね」と言った時です。
今、そんなに好きな野球と同じように打ち込める物が見つかる?
大学生になって野球を再開しても、甲子園は高校生にしか見ることができない夢なんじゃないの?
トライしないで悔しいと思う日が来るなら、当たって砕ければ? というようなことを、静かに泣いているヒロ君の横で、どうしたら良いのかわからないまま、私は言ったように思います。
正直、私もいっぱいいっぱいでした。
私だって、仕事や日常生活を放り出して入院している患者です。彼の悩みはそのまま自分の悩みとして跳ね返ってくるのです。
そろそろ彼の話を聞き続けるのも、限界だったのかと思います。

翌日の晩から、彼は野球中継を見にロビーに降りてくることはありませんでした。
私も彼と気まずいまま、何となく自分から近づいていく気にはなれず、結局、その後はろくに言葉を交わさずに、彼は退院していきました。


その2年後、たまたまテレビで甲子園の東京代表校を、詳しく紹介する番組を見ていました。
メンバー紹介の中に、突然テレビから彼の名前が聞こえてきたのです。
洗い物をしながら何気なくみていたテレビにくぎ付けになりました。
随分大人っぽくなりましたが、サムライみたいな寡黙な少年がそこにいました。
彼は夢をかなえていたのです。

その夏、彼の学校は甲子園でベスト8まで行きました。
私も、甲子園までは行けなかったけど、彼の試合の日には仕事どころではなく、会社を休んでテレビにくぎづけで応援しました。
ヒロ君はピッチャーではなく、ピンチヒッターとして2回、甲子園のマウンドを踏みました。
監督のコメントで「彼はこのチームの精神的な支えなんです」とヒロ君のことを話しているのも印象的でした。
15歳で大きな挫折を味わい、克服し、18歳で夢を果たした少年は、今どんな社会人になっていることでしょうか。

12. さよならの時

masa当たり前ですが、入院患者は入院した日も、入院期間も、退院日もバラバラです。
長く入院していると、それだけ多くの退院の患者さんを見送ることになります。
残った患者は、「残された感」を感じながら、寂しいリハ室でひたすらトレーニングに励むわけです。
次は自分が退院して見送ってもらうんだと・・・。

退院する日の患者さんは、みんな晴れ晴れとした笑顔で去って行きます。
大抵は家族の車に乗って、窓を開けてみんなに手を振りながら病院を出て行きます。
お別れの前に病院の前でみんなと写真を撮るのも1つの慣例です。

こんな感じで、初めての入院生活は終わりました。
1か月半、かかりました。

13. 間違っていたセルフケア

退院後は、この腹筋を維持するために、ひたすらスポーツジムに通いました。
腹筋が退化していくのが怖くて、必死に運動していました。
でもこの時は、私の身体に必要な腹筋がどんなものだったのか、全く理解していませんでした。

ジムの常連は決まっていて、平日の夜はウェイトを持ち上げるようなマッチョなお兄さんばかり。
女性が少ない中で、100回の腹筋は嫌でも目立ちます。
なんとなくそれがパフォーマンスみたいになってきて、ストレッチを30分やった後、腹筋台で腹筋というのが定番になっていきました。
もともと入院中は1日4時間ものトレーニング時間があったものを、会社帰りに30~60分でやろうとすると、必然的に自分のやりたいメニューだけになっていきます。

自分に必要なものというよりは、自分がやりたいメニュー
得意とするメニューに偏っていくのです。
これが、くせ者なわけです。
それでも会社に行きながら、週3~4回は腹筋しにジムでトレーニングすることを3年も続けていたのですから、偉い!! (笑)
でもやっぱり3年後に、間違ったセルフケアのツケが重くのしかかるのですよ。

14. 質問したい、でもできない

大学病院の整形外科は、毎日とても混んでいます。
午後の診察外来は完全予約制なのですが、1時開始の外来なのに1時の予約で行っても午前中に診きれなかった患者さんがいっぱい残っていると3時、4時とずれ込みます。
なぜか病院の待合イスって、ものすごく座り心地が悪い。腰が痛くなる。
あんなイスを置いて2時間も3時間も待たせるなんて、どうよ??(怒)

退院から1カ月後の外来でも、長ら~く待たされた後、ようやく自分の名前が呼ばれて、診察室に入ると、先生が、「どう?」って聞くのです。
「・・・なにが?」って思いました。
例えば、入院生活はどうだった? リハビリはどう? 腰の調子はどう? その後仕事をしていてどう?・・・等、どうとでも受け取れる質問で答えに窮したのでした。
しかたなく「・・・特に・・・・」と答えると、
「あ、そう。じゃあまた来月来なさい。痛み止め出すから。」と言われて、びっくり!!!

だってまだ、
「どう?」「特に」・・・・これしか話していないんですよ。
会社を半休にして3時間も待ったあげく、これだけで終わり?
しかもまた来月この会話をしに来るんですか? 先生。
あたし、そんなに暇じゃないんだけど。

・・・・結局こんな不毛なやりとりを2.3回繰り返して病院通いは止めました。
行ってもしょうがない、と強く思いました。

本当はいろいろ質問したかった。
・私の腰はどうなったのか? どんな状況にあるのか?
・入院前後のレントゲンから、入院の成果がどの位あったのか?
・これからの見解は? 先生の意見は?
・日常生活で気をつければ、痛みの再発は防げる余地があるのか?
 あるとしたら、どんな点に気をつければ良いのか?
・痛い時にやるべきこと、やってはいけないこと

でも毎回そんな事を聞けるような雰囲気ではなかったし、先生の前ってなんか緊張するんです。
後から「あんな事も聞きたかった、これも聞けば良かった」と思ってもその時には出てこないものです。
後ろにいっぱい人が並んでいて、みんな辛そうな面持ちで待っていることも分かっているし・・・早々に腰を上げるしかありまんでした。
3時間待って、3分の診療。何も解決されないし、全く意味なし。
不安と不満だけが残る外来でした。

15. コルセット

「コルセットをしなさい」という先生と「するな」という先生がいます。

「しろ」という先生は、「痛い時は無理せず、筋肉の負荷を軽くして早く筋肉が元の力を発揮できるようにしてやることが大切」と言います。
でも「するな」という先生は、「コルセットをしていると自分の筋肉がコルセットに頼ってしまい、筋力が弱くなってコルセットを外せなくなってしまう」という考えを持っています。
どちらも長所・短所があり専門家の中でも意見が分かれるところなのでしょう。

同じ大学病院の同じ研究チームの先生同士でも、「しろ派」「するな派」の先生がいました。
「しろ派」の先生に質問
痛い時がずっと続く人の場合には、ずっとしていろということですか?
「するな派」の先生に質問
とても痛い時、コルセットをしないでがんばっていると無意識に痛みを逃がす方向に体を曲げる(回避姿勢)、等、弊害も起きると思いますが、それはどうですか?
年配の方にも「がんばれ!」と言い続けますか?

私に入院を勧めた先生は「するな派」の極端例だったように思います。
「支えられなくなっている腰をアスリート並みの腹筋で支えなさい。そのためには入院リハビリが必要」と言われ、入院したのですから。
もはや自分で支えにくくなっている私の腰を「鍛えた腹筋で支えろ」と言っている訳です。
この先生は徹底していて、75歳のお婆ちゃんにも「腹筋が足りない」と説教していたのを聞いたことがあります。
お婆ちゃんは「あたしを何歳だと思っているんだ、このヤブ!!」と怒っていましたが。

私は「するな派」の先生に診てもらう期間が長かったので、自分ではコルセットをしたことはほとんどありません。
が、その本当の理由はコルセットをするのが面倒くさかったり、コルセットをしていると腰は楽かもしれないけど動きにくい、という完全に患者側の理由からです。
だって、トイレの時とか本当に面倒くさいのよ。
以前は筋力を落とすのが恐怖でしたからコルセットはいかん、敵だ!と思っていましたが、最近は1日中コルセットをしなければコルセットを使用しても良いのではないか?と考えています。
例えば、夕方腰が疲れてきたら、とか、家に帰るまでの間コルセットを使う、とか。
または腰に負担がかかる作業(重い物を運ぶ等)をするときだけ、腰をかばうために使う。
それが一番良いのではないでしょうか。

16. これが坐骨神経痛?

元々は私は痩せていて、胃を壊す前も体脂肪率は17%位でした。
そんな体で急激に痩せてしまうと、脂肪ではなく筋肉が痩せてしまうんだそうです。
1回目の退院後から1年位、とてもストレスフルな仕事をしており体重は急激に減ったのですが、確かにみるみる身体を支えられなくなったのはこの時期です。
当時は1回目の入院でつけた筋力がまた低下したせいだと思っていましたが、痩せたのが原因かもしれません。

着られなくなっていた洋服が入るようになったと喜んだのもつかの間、まず机で長時間座っているとお尻から脚にかけてしびれてくる。
そのしびれがどんどん強くなり、非常に苦痛になり、仕事に集中できなくなってきます。
008でもお客様との電話対応の仕事ですから、電話の途中で立ち上がるわけにもいきません。
電話を切ると用もないのにトイレに行ったり、コピー機の近くに行ってコピーしているようなフリをして腰を伸ばしたり、社内を歩き回ったりしていました。
とにかくじっとしているのが辛かった。

腰を腰の筋肉で支えられない分、机に左手の肘をついて受話器を持つ手に体を預けながら電話、首が左に傾いているので倒れそうになるのを左の脚を組んで右のお尻に体重をかける。
あの頃の姿を今、想像するだけでも恐ろしい。

とんでもない姿勢で仕事をしていたのです。
そのうち、左の肩と首が凝って首が回らなくなり、ずっと体重の一部を支えてきた左の腕まで痺れ始めました。
今考えると当然です。

腰の支えができにくいということは、立っても歩いてもバランスがとれないものです。
座るのがきついと感じ始めてほどなく、ヒールの靴で歩くのが苦痛になりました。
まず左足が夕方になるとパンパンにむくんで、帰り道は靴ずれとの戦い。
足の形が変わったように今まで好んで履いていたメーカーの靴も足に合わなくなりました。
とにかく靴が合わなくて足が痛いのです。
しかたなく踵にエアーの入ったローファーのような靴を履くようになりました。
でもそれもしばらくすると、左足をつくと踵から頭まで突き抜けるような痛みが走るようになって、1歩1歩、左の踵をつくたびにズトーンズドーンと響くのです。
歩くのが恐怖ですらありました。

010しかも100m位歩くと腰から脚全体に痺れとも痛みともつかない、何とも言えない違和感が襲ってしゃがみこみたくなります。

私のオフィスはその頃半蔵門駅の近くにあり、麹町・紀尾井町というシャレたビジネスマンや外人が足早に動き回る街の中で、私もすかしたOLを気取っていたのに、そんな私が路上でしゃがみこむってすごく格好悪い事で・・・・。

でもどうしようもない。

電柱の陰に隠れては電柱に手をついて腰を擦ったりしながら休み休み歩いていました。
格好悪くて会社の人にも友人にも話せない辛い日々でした。

17. 良すぎた姿勢

どうしたら腰痛を予防できるのか。
・・・それが解っていないのが致命的だったな、と今は思います。
結局日常生活の姿勢が問題だったのです、私の場合。
でも他人から「姿勢が良い」と言われた事はあっても「姿勢が悪い」と言われた事は1度もありません。
「姿勢が良すぎるのも問題」なんて事は、考えたこともなかった。

私の場合は「反り腰」と言って、腰を反りすぎるのが原因で起こる腰痛。
周りから見ると、いつも腰をピンと伸ばして姿勢が良いと褒められるこの腰の状態は、腰を反りすぎることによって負担がかかり、ついには腰の骨が折れてしまうのです。
「姿勢が良すぎるのも問題」・・・、そんなのわからないでしょ。
正しい姿勢って本当に難しい、と思います。
どうやって寝るのが正しいのか?
どうやって座るのが正しいのか?
どうやって立つのが正しいのか? ・・・・考えたことありますか?

18. 産婦人科とのコラボ ?

1回目の入院から約2か月、2回目の大学病院の予約診のことです。

S先生が急に「そういえば、宇田川さんはいくつだっけ? 結婚していたよね? 赤ちゃんは? 」と言うのです。

私    「はぁ~
S先生「赤ちゃんを作るとなると、妊娠6か月位から入院してもらわないとなぁ。
       あなたの腰じゃ体重の増加に耐えられないからなぁ」と勝手に話はどんどん進んでいきます。
私 「はぁ
S先生「そしたら赤ちゃん取り出す時に背骨の手術も一緒にやるようだなぁ。
      産婦人科とのコラボは初めてだなぁ。」
私    「そういう話なら、赤ちゃんはあきらめます
S先生「いやいや、そう言わずに一緒に子作りに励もう
・・・この先生、遊んでるよね 楽しそうだよね

S先生「骨盤が開くのも危ないなぁ。」
私   「・・・」
S先生「でも宇田川さんの赤ちゃん見たいなぁ

・・・うるさいよ。
人の人生に関わることで遊ぶな。
今ならハラスメントで訴えられそうですが、まだそんな意識も世間に浸透していなかった時代です。

肝心の腰の話は全くない診察でした。
この後、この先生は会うたびに病院内で大きな声で「うださーん、赤ちゃんは一緒にがんばろうよ」と言うようになりました。
もう・・・

19. 鎮痛剤の話

退院からしばらく時間がたつと、また腰痛が徐々に出始めました。
ただ、朝起きられないほどの激しい腰痛ではなく、「いつも何となくおもだるい」とか、「ちょっと腰を動かした拍子にピリッと電気が走る」とか、その程度のものです。
この頃はその日1日の体調を、「朝、顔を洗う時に腰をかがめて、ピリッときたらヤバイ」という基準で決めていました。
もしピリッときたら痛み止めを飲んで出勤するのです。
夜も同様に「歯磨きでピリッときたら」服薬して寝ます。
入院中から痛み止めはたくさん貰っていたし、その後の通院でも薬はたくさん出ていたので売りたいほど薬は持っていました。
それを朝晩1粒ずつ、せっせと飲んでいました。
薬が効いているのかどうかは不明でしたが、「薬を飲んだ」という安堵感はあります。

ちょうどその頃、会社では仕事も忙しくなって、合わない上司もいて、ストレスもいっぱいの毎日を送っていました。
気になる案件はいっぱいありましたし、社内で相談できる人は少ないしで食欲が落ちて急に痩せました。
そのうち朝、歯を磨こうと口に歯ブラシを入れただけで吐き気を催し、これはストレス性の胃炎なのでは?と考えて内科を受診しました。

胃カメラで「びらん性胃炎」と言われたのですが、どうもストレスだけではなく、毎日服用していた鎮痛剤がいけなかったらしいです。
ピロリ菌も見つかって、胃が強い鎮痛剤で弱ってしまったのが原因でピロリ菌が悪さをし始めたのかもしれないという事で、ピロリ退治もしました。
胃炎はその後1年位かかってきれいに治り、吐き気や胃痛も治まって食欲も戻りました。

外科では1か月分まるまる処方されていた薬ですが、強い鎮痛剤は胃を荒らすので、内科では一週間分ずつしか処方しないと言われました。
ひぇ~、私半年位、毎日のように飲み続けちゃったよ。
でも、入院中もその後も1か月単位で貰っていた薬なのにな~。
それからは鎮痛剤をきっぱり止めました。
薬を止めても腰痛の程度は変わりませんでした。
胃だけ壊して肝心の腰にはあまり効いていなかったという事ですね。
怖いのは、本人は腰が痛いから薬を飲んでいるわけで腰の事しか考えていませんが、実は薬は全身に回っているということです。

20. いよいよダメか? →再入院の決意

ひどい状態になっても、しばらく病院に行くことはしませんでした。
仕事も忙しかったし、じっと座っているのがますます苦痛になっているのに、病院の長イスに3時間も座っている自信もありません。
変な話ですが、ある程度元気でないと大学病院の外来には行けないんですよ。

「まだ大丈夫」と勝手に思っていました。
腰痛のやっかいなところは、症状が日によって波があることです。
5日間ずっと痛くてしかたなくても6日目に急に腰が軽く感じることもあるのです。
腰が軽い日が1週間位続くこともあります。

根本的に「できるだけ通院したくない」という意識があるので腰が軽い日があると「もう少し様子をみてからにしよう」と思い、仕事の忙しいのを理由にグズグズしているうちに半年位過ぎてしまいました。
何となくいつも腰が気になっていつも手が腰に回っているので、時々同僚に「また腰が痛いの?」と聞かれたりしました。

ある日、その日も腰が軽く感じられて久しぶりに腰にあまり意識がいかない1日でしたが、7Fのオフィスからランチを買いに1Fまでエレベーターで下りた時のことです。
1Fまでノンストップで下りられてラッキーと思っていたらエレベーターが1Fに着いた「トン」という衝撃で頭まで突き抜ける痛みが走り、思わず壁に手をつきました。
エレベーターのドアが開き、守衛のおじさんがこちらを見て「具合が悪いのかい?」と声をかけてくれましたが、自分がびっくりしてしまっていて答えられませんでした。
それからはエレベーターの振動も恐怖になりました。
とにかく地階につく時の「トン」という衝撃が耐えられない時があるのです。
1人で乗っている時には野球の内野手のように膝に手をついて中腰で振動に備えます。
他人が一緒に乗っている時には壁に手をついて、膝を少し曲げて、少しでもショックを膝や太ももで吸収できるようにしていました。

この頃はとんでもない位生活が不便になっていました。
ベッドからすんなり起きられない。
朝、洗面所で中腰になることができなくなり、洗面台に片手をついて片手で顔を洗う。
靴が合わない、足が痛い。
歩く時、踵をつくと腰に響く。
長く歩くことができない。
じっと座っていられない。
座りっぱなしでいると、お尻から脚の裏側にかけてビリビリ痺れてくる。

・・・でも不思議に悲壮感はなかった。
自分はまだまだ大丈夫だという変な自信がありました。
ただ、このまま仕事をしていてもあとどの位もつかわからないなぁ、と感じ始めました。

言葉どおり重い腰を上げて再度病院に行き、2年ぶりに会った主治医に再入院をお願いしました。
プロフィール

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